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林省之介マニフェスト公開ぜひご一読を! 連載中「男の一分」はこちら 怒りの無所属出馬へ!政治のウラ話、実名挙げて全部話したるデ! 年金怒りのメッセージはこちら ●林事務所よりご連絡● 公示日の7月12日(木)、10時より出陣式を行います! 場所:日本一事務所前 7月12日はポスター貼り、証紙貼りなど膨大な人員が必要です。1,000人いても足りません。どうぞ12日のボランティアでのお手伝いをお願いいたします。 ボランティアサポーター 募集中!! ①街宣車の運転手 ②ポスター貼り ③電話かけ ④ビラ配り ⑤事務所内軽作業など お問い合わせはこちら! ●林省之介略歴● 【現在の役職】 大阪芸術大学客員教授 日本拳法全国高等学校 連盟会長 【主な経歴】 関西大学文学部教授 大学受験ラジオ講座講師 衆議院議員(一期) 【主な著作】 「江戸小咄の笑い」 「林の楽らく古文」 「林のニュー源氏物語」 ●連絡先● 日本一選対事務所 〒542-0073 大阪市中央区日本橋 1丁目13-20 国立文楽劇場向かい tel:06-6635-1556 fax:06-6635-1558 mail:osaka884@excite.co.jp 長堀橋後援会事務所 〒542-0082 大阪市中央区島之内 1丁目22-20 堺筋ビルディング10階 tel:06-4704-5051 fax:06-4704-5053 mail:osaka884@excite.co.jp メールはこちらから ホームページはこちら mixiをはじめました。 カテゴリ
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平成十四年の通常国会は冒頭から大荒れで始まった。
例の鈴木宗男氏と辻元清美氏のバトルも世間の耳目を集めた。例の「疑惑のデパート」発言だ。 鈴木氏は自民党だったので、彼のことはそこそこわかっている。 とにかく自分の主張を通すためには、大声で顔を真っ赤にして、机を叩き何度も何度も主張する。 しかし、よくよく聞いてみると、彼の主張は理論的にまちがっていない。 「そらそうだな」と納得できることが多かった。 ただ、彼が逮捕までされたのは、ロシアやアフリカへのODAにしろ、多額の謝礼やリベートを得ていたのではないか、との疑惑である。 まだ係争中のことなので断定できないが、もしそれが事実だとすればとんでもないことである。 一方、舌鋒鋭く鈴木氏を追求してた辻元氏。彼女は他人のことはきびしい口調で攻撃するが、ワキが甘すぎてねらい撃ちにされた。 いわゆる「秘書給与ネコババ」事件の発覚である。この事件がマスコミで報道され出すや、私のところに多くの電話・ファックス・メールが届いた。 いわく、「先生のビラまき事件、ビラに書かれていたことほんまやってんなあ。こいつ悪い女やったんや。エライ目におおたなあ」と言った内容のコメントが多く寄せられた。 今更何言うてるねんと思ったが、私はこの件についてほとんどコメントしなかった。 ビラまき事件の騒々しさにうんざりしていたからである。 ともかく彼女の弁明は二転三転し、政治と金の問題がもっと国会で取り上げられるよう「政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会」のメンバーだった私は理事に進言したが、取り上げられることはなかった。 辻元氏は涙ながらの記者会見のすえ、平成十四年三月二十六日に辞職した。 ▲
by osaka884
| 2007-07-05 16:15
| 連載 「男の一分」
平成十三年七月二十九日投票の参議院議員選挙は、小泉旋風が吹き荒れて、マスコミまでが「改革の小泉」とあおり立てるものだから、自民党大勝利に終わった。
平成七年の参議院議員選挙で、次点の共産党候補と二・三万票差でかろうじて逃げ切った自民候補など、森総理の時には、 「あほらしいてやってられん。オレはもうヤメタ」 と何度も言っていたが、小泉人気を察知したとたん、 「もう一回やる」 と言い出し、こんな人までがこれまで大阪府選出の自民党参議院議員候補が取ったこともない、百万票近い得票でトップ当選した。 「こんな人が」 と驚いたのは私だけではなく、誰もが信じられない結果であった。 以来、自民党は「カゼ頼み」の選挙戦を展開し、平成十七年九月の郵政選挙などもその最たるものといってよろしかろう。 参議院選挙後の秋の臨時国会になると、小泉政権はもう怖いものなし、まさに小泉首相のやりたい放題。 総裁になるそのための方便だと言っていた、志師会との政策合意など全く無視して、森派中心の茶坊主内閣で郵政民営化へとつき進んでいく。 そしていよいよ積年のうらみ、他派閥つぶしが本格化するのである。 確か平成十三年七月二十九日施行の、第十九回参議院議員選挙の大勝利のあと、自民党は小泉内閣は再度信任されたとうそぶいていたはずだ。 しかし、この七月施行の第二十一回参院選挙については、逆風を現在もろに受けて、党幹部は盛んに、 「参院選は政権の信任と問う選挙ではない。万一過半数を割っても、安倍内閣は責任を問われない」 などと、今からやっきとなって予防線を張っている。実に国民に対しても失礼で、身勝手な言い分に、おかしいやら、腹立たしいやら、情けない人達だと哀れになって来る。 そして今日、新しいニュースが入ってきた。 原爆投下に関する発言で引責辞任した久間章生防衛相の後任に、小池百合子氏を充てる人事を決めた。確かにこの方は旧森派(現町村派)で安倍総理のお友達なのかもしれない。 「防衛大臣、小池百合子…。」 この人事が適切かどうかは参議院選挙で有権者の皆さんが判断するでしょう。 ▲
by osaka884
| 2007-07-03 18:11
| 連載 「男の一分」
平成十三年四月二十四日、全国党員投票の結果をふまえ、自民党所属衆参国会議員による総裁選投票が行われた。亀井候補を降ろして志帥会が小泉支持に回ったので、圧倒的大差で小泉氏の当選が決まった。
「自民党をブッ壊す!!」 とわめき、パフォーマンス総裁選を展開して、まさにポピュリズムを演出して総裁となった小泉氏。しかし、この直後にとんでもないことを言ってのけたのである。総裁選が終了した直後の朝日新聞のインタビューで、志帥会と政策合意して支援を取り付けたことについて尋ねられ、 「あれは選挙に勝つためのもので、方便だ」 とうそぶいた。 権力を手に入れるためなら手段を選ばない。ウソも人を騙すのも平気。これを公言したわけである。両派が政策合意した経済政策はことごとく無視して全く聞き入れず、志帥会同志の大きな怒りを買ったのである。 私はこんな彼の行為を、人間として断じて許されないことだと考える。こんな信義にもとる男を総裁にしてしまった。私達志帥会の責任は大である。 「自民党をブッ壊す!!」 とわめいた彼は、自民党を壊したのではなく、平成研(橋本派)・志帥会(江藤・亀井派)など、他派閥に抵抗勢力のレッテルを貼り、ブッ壊しただけ。 そして自分の派閥である清和研(森派)を拡大しただけなのだ。小泉氏が総裁になる前、党内第三派閥だった森派(現町村派)は、今やダントツの第一派閥となり、一時期だったが第二派閥であった志帥会は、今や第五派閥と壊滅寸前となっている。 「改革だ!!改革だ!!」 と大騒ぎしてやったことは、残念ながら、昔ながらの単なる派閥の勢力拡大に過ぎない。 そしてグローバルスタンダードの名のもと、米国が押し付けるルールを全て鵜呑みにして、国家による福祉・公共サービスの縮小と、大幅な規制緩和、市場原理を絶対視した景気刺激策が推進された。この政策の結果について、良い面、悪い面、様々な見方があるだろうが、私は、まさに日本をアメリカに売り渡すことにほかならないと考えている。このことは後日申し上げることにしましょう。 ▲
by osaka884
| 2007-07-02 08:01
| 連載 「男の一分」
~平成15年11月からの雌伏の時期と、無所属出馬までの経緯~
平成15年の第43回総選挙において、私はコスタリカ方式により大阪10区ではなく比例近畿ブロックで単独立候補することが決まった。本来、第43回総選挙では私が大阪十区の候補者になる約束を交していたが、(党執行部と確認書を交わしていた)平成14年に辻元清美代議士の議員辞職に伴う補欠選挙で同じ自民党の松浪健太君が当選したため、大阪十区の候補者を松浪君に譲る代わりに、当選可能な順位にするという約束で、私は比例回りを了承した。 ところが第43回総選挙の公示日前夜、島本町での会合で松浪健太君の応援演説を終え、支援者が営む店で夕食中の私に、驚きの電話が入った。電話は近畿の自民党某県連幹部からだった。 「大変や!オマエ比例順位、40位になってるぞ!」 「えっ?4位の間違いでっしゃろ。近畿で4人しか純粋比例候補はいないんですよ」 「いや。40位で間違いない。今党本部から流れてきたFAXを見て電話しとるんや」 アタマの中が真っ白になった。近畿ブロックでは私を含め、4人の現職代議士が純粋比例候補として了承されているはずだ。混乱しながらも、すぐに派閥の領袖である亀井静香代議士に確認の電話を入れた。 亀井代議士は何の説明も無く、ただ「スマン!!」を繰り返すばかりだった。 私は当時、現職の自民党衆議院議員でありながら、落選確実な名簿順位40位に「降格指名」された。 怒り心頭に発する間もなく、党執行部から事実上「公示日前日」にバッジをはずされた形になり、当然の如くこの選挙に落選した私は、国政復帰を目指して翌平成16年の参議院選挙に全国比例区での公認を申請した。 当時、私の所属する志帥会(派閥)の長だった亀井静香代議士が必死になって公認を党に迫ったが、町村信孝総務局長一人が頑なに反対し、公認はかなわなかった。 その後も動けるだけ動いたが、ついに、平成16年4月13日亀井代議士本人より電話が入った。 「スマン!今回はどうにもならん、諦めてくれ。次(3年後)は必ず(公認を)取るから。」 私の平成16年の参院選は、終わった・・・。 それからの2年余り、引き続き雌伏の時を余儀なくされた私は、再び全国比例区での立候補にむけた活動を継続していたが、最も大きなショックだったのは、同期生永岡洋治君の自殺と、平成17年の第44回の総選挙(いわゆる郵政解散)前に、私が所属する志帥会(旧江藤・亀井派)が分裂したことである。 当時、亀井・平沼両先生を中心に郵政法案反対の立場を通してきた数名が、本会議採決で裏切り行為に出た。後に亀井先生が漏らしたところによると、谷津義雄・西川京子の2名の造反が特に大きかったらしい。かくして志帥会は、党執行部にとって疑心暗鬼の対象となる派閥となり、郵政法案に反対した者に小泉総裁は公認を出さず、同じ選挙区に刺客候補まで送り込んだことは、読者の記憶に新しいことでありましょう。 これまでの経緯を知る同期生(平成12年初当選組)28名全員が署名捺印までして、党幹部に要請してくれた結果、青木幹雄党参院会長、片山虎之助党参院幹事長も感ずるとこがあったのか、「林君は何とかしてやれ。」との声も掛かったようである。 そして、平成18年6月13日、私は自民党総務局長遠藤武彦代議士に呼び出された。 彼の言うには、 「君の公認は自分が責任を持ってやってやる。君は良い友人を持っていて幸せな人だ。何とかお盆前には発表してやれそうだ。ただし、文章や文字にして後援会などに通知するのは待ってもらいたい。もちろん口頭でなら、どれだけ言い廻ってくれても良い。」 とのことだった。 しかし、同じ年の9月に安倍総裁の下で自民党が新しい執行部になると、前執行部から得られた公認内定など何処吹く風と言うが如く、正式な公認がなかなか出ない。 そうこうしているうちに、国政では郵政造反組の復党問題が勃発した。 最近の自民党は幹部の発言や約束事が支持率を気にしてコロコロと変わる。造反組の復党も当初は参院選の後にすると言っていた中川幹事長が、参院選での党の雲行きが怪しいのと、参院サイドの圧力に負けた形で、造反組と称される議員に対して、郵政民営化支持と復党願いの提出という高いハードルを課すことによって認めようとした。これに真っ向から反発したのは、記憶されている方も多いと思うが、平沼赳夫元経済産業大臣ただ一人だった。 「郵政民営化反対で当選した自分は、屈辱的な誓約書にサインは出来ない。」 と、筋を通されたのである。まさに「信念の男平沼赳夫」に、私は拍手したものである。 造反組の復党問題にケリが付いたから、いよいよ今度は(参院選に出馬する)自分たちの番だと、私は何度も東京に足を運んだ。青木参院会長、片山参院幹事長、伊吹志帥会会長島村志帥会名誉会長、河村志帥会事務総長、谷津党選対総務局長、中川昭一政調会長等々、頭を下げまくって懇願した。また、手紙も書いた。安倍総理、中川幹事長、青木参院会長片山参院幹事長、中川昭一政調会長、森元総理。これと思う方々に片っ端から書いた。すぐに返事を下さったのは、森元総理だけだった。これには心底感動した。 また年末には関大校友会会長はじめ支援者の方々も、党本部や志帥会にお願いに行ってくださったりもした。 しかし、寝ても覚めても、年が明け平成19年になっても、私には何の沙汰もなかった。しかもこの間には、『安倍総裁のお友達』という理由で、米田健三・衛藤晟一元衆議院議員の2名のみが参院比例区で公認された。この間私は十数度にわたり、永田町に足を運んで懇願したが聞き入れられず、ついには 「中川秀直幹事長が強固に反対しては、もはやどうにもならない。」 という弁解を聞くばかりだった。 平成19年3月2日に同期生と中川幹事長の懇談の席で再度、私の公認を懇願してくれたが 「君らはしつこすぎる。いい加減にしろ。林を公認しないのは、(関大校友会をはじめとする)支持団体の規模が小さいからだ。これではとても当選できない。」 との一点張りだという。後日コッソリ聞かされた話だが、初当選同期組のうち、幹事長と同じ派閥の吉野正芳・高木毅・松野博一君などは、 「いい加減にしないと、君らもどんなことになるかわからんぞ!」 と恫喝されたらしい。 何もかもが、平成16年の時と同じだった・・・。 あの当時は 「町村が!町村が!反対するからダメなんや。」 と言われ、今回は 「他はみんなヨシとしているが、中川幹事長が反対してどうにもならん。」 と、皆が口を揃える。 今や自民党は、党内民主主義が機能している国民政党ではなくなってしまった。 選対委員のほとんどがヨシとしているのに、強力な権力を持つ幹事長が一人賛成しなければどうにもならない。まさに党内が独裁的体質になってしまっている。なぜこれほどまで頑迷に中川秀直幹事長は私の公認を反対するのだろうか? このことがある程度ご理解いただける政治の世界のうすら汚い裏事情は、引き続きこのブログでお知らせすることにしたい。 おそらく、自民党の公認は、もう無理だろう・・・。 自民党の比例区最終公認は前回も前々回も5月の中頃だった、もう私の公認は無いと腹をくくった私は、忙しいとアポさえもらえそうになかった中、5月17日の午前9時45分ごろ、伊丹空港で亀井静香国民新党代表代行に会った。彼が車に乗り込むまでの僅か7~8分の立ち話であったが、 「我が党は自民党と戦ってきた政党だ。自民党で公認を断られた人をハイどうぞ、と仲間に入れるわけにはいかない。」 と、ケンもホロロの対応であった。 道楽息子が勝手気ままに適当にウロチョロして自分の元へ帰ってきた。 「よう帰ってきたな。よし、一緒にやろう!」 というぐらいの返事が返ってくると思っていた私は愕然とした。 「亀さんすっかり変わってしもうた。もう昔の義理や人情の人ではなくなった。さようなら亀ちゃん・・・。」 空港からの帰り道、亀井先生が酔うと私たちの前でよく唄っていた、演歌「兄弟仁義」を、私は一人口ずさんでいた・・・。 ♪親の血を引く~兄弟よりも~堅い契りの~義兄弟~♪ 政党公認による、参議院全国比例区での出馬の道は断たれた・・・。 今夏の参院選を、政治家として「最後の戦い」と位置づけて活動してきた私にとって、残された選択肢はもはや一つ。 長い雌伏の時を支えて下さった多くの支持者の支援に応えるべく、そして私自身の「男の一分」として、近年の理不尽な自民党政治を正す、最後の闘い。 私は、参議院議員選挙に大阪選挙区から、無所属で出馬することを決意した。 ※ここをクリックすると、候補者調整の確認書がダウンロードできます。(PDFファイル) なお、PDFファイルをご覧になるには、Adobe Readerが必要となります。 ▲
by osaka884
| 2007-06-30 15:26
| 連載 「男の一分」
平成13年の総裁選の最中、私は四六時中亀井先生に付き添っていた。テレビ出演の時も、全国各地の志帥会メンバー主催の党員大会などにもすべて同行した。
そのような活動のなか、思わず大笑いしたエピソードを一つご紹介しよう。熊本へ行った時のことである。ここは今は亡き松岡前農水大臣の地元で、すべてのしきりは松岡先生の地元事務所スタッフが担当していた。大会を終えて、亀井先生がかなり疲れた様子なので医者をたのんで、点滴でも打ってもらおうと言うことになった。すぐさま同行者の私が松岡先生と連絡を取った。 「松岡先生、お忙しい所、申し訳ありません。亀井先生の具合が少し悪いので、ホテルに医者を送ってもらえませんか。点滴でもしてもらえばと思うのですが」 「よし、わかった!!すぐ手配する」 松岡先生は行動力のある人だった。すぐに地元秘書さんに連絡をしたようで、亀井先生がホテルに入って二・三十分でお医者が到着した。 ところが、パッと見たところどうも様子がおかしい。少なくとも自民党総裁候補、亀井静香先生を診てもらうのである。看護婦さんの一人や二人連れて来てもおかしくないのに、少しお年を召した感じのお医者さんが一人やってきて、部屋に入ったと思ったらすぐに出てきた。 お医者さんが部屋を出られた直後に、 「バカモン!!すぐ松岡に電話しろ!!」 亀井先生の大声が響き渡った。何事かと部屋を覗くと、日常的に亀井先生に付き添う長井秘書が当惑したような顔で、 「松岡さん、ナニ考えてるんだ!!」 とボヤいている。 あとで聞いてア然としたが、やって来たのは獣医さんだったようだ。 松岡先生は地元秘書さんに、「カメの具合が悪い。カメが具合悪いからすぐにホテルに医者を手配してくれ!!」と指示されたらしい。 ▲
by osaka884
| 2007-06-26 10:12
| 連載 「男の一分」
森内閣の支持率が平成13年2月10日の「えひめ丸事件」を機にガタベリ状態になるなか、平成13年夏の参議院選挙に自民党公認候補として大阪選挙区から出馬予定だった谷川秀善候補予定者などは
「こんな状況で選挙なんかやってられるか。勝てるわけあらへん。アホらしてやってられへん。オレはもう立候補せん」 と大阪選出の国会議員の会合でたびたび言うほど自民党を取り巻く情勢は酷いものであった。 ところが森内閣が解散し、自民党総裁選が始まるや様相は一変した。候補者は亀井静香・橋本龍太郎・高村正彦・小泉純一郎の四氏、私は当然のこととして亀井先生の付き人を命じられ、二十四時間体制でついて歩いた。 とにかく小泉氏の人気が圧倒的で他候補を引き離している。志帥会総会でも議論となったのは 「民意(党員選挙)が六~七割小泉なら、オレ達国会議員投票でひっくり返してもかまわん。しかし八割を越えたら民意に従わざるを得ない。」 との結論に達した。 結果は小泉約八十五%、他三候補合計約十五%の支持率であった。しかし、国会議員投票で志帥会の五十六名が平成研(橋本派)支援に回れば、橋本総裁誕生である。我々は悩んだ。明朝早々に総会を開いて態度を決めようとしていた矢先、投票日当日の午前一時過ぎ、小泉候補と塩川正十郎後見人が志帥会選対本部に来られた。後日、江藤会長が話されたところによると、小泉氏は顔面蒼白で、手を震わせながら、江藤・亀井先生の手を握り、 「助けてください!!」 と訴えたということだ。 「純ちゃん!!わかったよ。君と僕らは元々同じ清和研の釜の飯を食った仲だ。応援するよ」 と亀井先生は答え、 「ただし、オレ達は九項目の緊急経済対策を掲げて総裁選を戦って来た。お互いに実務者を出し合って、君とこの政策をすり合わせて、合意書を作制してくれ。この合意をもって、君を支援しよう」 と決したのである。 ▲
by osaka884
| 2007-06-24 14:01
| 連載 「男の一分」
平成十二年初当選後の秋の臨時国会、各種行事への参加、各種陳情の受け付けなど、毎日目が回るほどの忙しさで、じっくりと政策を考える暇もなく暮れて行った。
年が明けて平成十三年になると、今年は参議院選挙の年ということで、派閥でも新年総会からゲキが飛び、私は全国比例区出馬予定の末広まき子氏を応援せよと命じられた。 二月二十四日には地元高槻で末広氏のためにミニ集会を開催したり、私の後援会幹部のもとに末広氏と挨拶回りに行ったりした。 そんな矢先の二月二十八日、予算委員会に差し替えで出席していた私に、蓮実進議員が 「あんたのとこでえらいビラ出てるらしいな。辻元が北川明の女やとか、ピースボートはピンクボートやといった内容らしいが知らんか?」 と尋ねて来た。全く知らないと答えると、 「そのビラ手に入れてオレに持ってきて下さらんか」 「わかりました。地元に問い合わせて見ましょう」 ということで、地元の後援者に問い合わせると、確かにそのようなビラが撒かれているとの事。ファックスで送ってもらい、そのままコピーして委員会室へ持っていった。 具合の悪いことに、秘書に 「コレ、急いでコピー二・三枚」 と言ったものだから、このコピーが四枚あった。 「どれどれ」 と蓮実氏が受け取るや、 「チョッと!!チョッと!!」 と四枚のコピーが委員の間を回覧するような状態になってしまった。いわゆる林のビラ撒き事件である。辻元議員の所属する社民党などはカンカンで、林を懲罰委員会にかけるといきまいていた。マスコミも、林が辻元氏を誹謗中傷するビラを予算委員会でまいたと大騒ぎになったが、マスコミ関係者の中には林のラジオ講座のファンも多勢いて、ことの次第を説明するとよくわかってくれて、マスメディアの林たたきは二・三日で終結した。 しかし、辻元氏の支援団体などは厳重抗議と称して、新日本婦人の会などを中心に全国からファックスや電話でジャンジャン攻撃して来た。送られたファックスだけで約一ヶ月で約五千件にも及んだ。 ▲
by osaka884
| 2007-06-22 14:49
| 連載 「男の一分」
七月十日以降、志帥会祝勝会・先輩先生方主催の一・二回当選者の祝賀会などがあった。この時ばかりは、これまでテレビでしか知らなかった多くの人達と親しく酒をくみ交すことが出来て、自分も国会議員になったんだとの自覚が強く持てる気がした。
志帥会祝勝会での江藤隆美会長の訓示は今も忘れない。 一、政治家たる者、思想・信条に従って忠実に行動せよ。 一、政治家が弱者の為に汗を流さなくて、誰のために汗をかくのか。 一、政治家は人にダマされても決して人をダマしてはならない。 一、政治家に先輩・後輩の別はないが、酒席には長幼の序列があると心得よ。 私は今もこの教えをよしとして守り続けて行こうと思っている。しかし、郵政解散前後から志帥会メンバーだけでなく、少し厳しい言い方をすれば、この四つの教えを守っている人は自民党には1人もいないと言えるだろう。イヤ、他党にもいないだろう。 杉村太蔵君ではないが、赤坂の高級料亭で毎日宴会なんてアホなことはないが、私の三年四ヶ月の在職中に、二十数回ぐらいは高級料亭でメシを食ったと思う。しかし、とてもじゃないが市民の皆様方に聞かせられるようなものでなく、 「お前ら、国民バカにしたらアカンで!!」 と言わねばならない話が多すぎる。 現在国民の間で大問題となっている「年金の国家的サギ事件」「政治と金」「定率減税の撤廃と住民税大増税問題」などなど。まさに「ダマされたらアカンで!!」と大声でわめきたくなるような大問題が山積みで、よくこれで暴動が起きないものだと、良識ある皆様に関心するばかりである。でも、ダマされたらアカン! ▲
by osaka884
| 2007-06-21 18:12
| 連載 「男の一分」
第四十二回総選挙で私の当選が確定したのは日付も変わった六月二十六日午前一時頃であったと思う。選挙協力で小選挙区からの出馬となった石垣氏は落選。二・三百メートル離れた石垣事務所に出向こうと、躊躇しながらも事務所を三十メートル位歩いた所で石垣氏とバッタリ出くわした。
「お世話になったのに、スマン!!」 実に痛々しい打ちひしがれた感じで深々と頭を下げられた。 「こちらこそ、十分にお役に立てず申し訳ありません!!」これだけ言うのが精一杯だった。 七月三日午前九時ごろ。多くの支援者(圧倒的に女性)に見送られて私は上京した。本来なら勇み立って東京に乗り込むものだが、やはり石垣氏の落選が心の片隅にひっかかっていた。 東京駅より志帥会事務局に直行したところ、たまたま亀井会長代行がおられ、 「オオ!!よかった!!おめでとう!!」 すでにどうされたのかはわからないが、金色に輝く議員バッヂをエリ元につけて下さった。 「まだ早いのと違いますか?」 と応じると、 「選挙に勝った時点で国会議員だ。かまわんからつけて歩け!!」 少し誇らしい気分になり、すぐトイレに飛び込んで言って鏡に映してみたが、なんとなくバツの悪い感じが抜けることはなかった。 この日は諸届けだけでも大変で、議員会館の事務所・議員宿舎・所属委員会・公設秘書三名の届出等々、なにしろ初めてのことなのでとまどうことばかり、先輩議員のベテラン秘書さんに色々と指導してもらったり、衆議院の事務局に出向いたりと大騒ぎであった。そして真っ先に決まったのが宿舎で、今何かと問題となっている赤坂宿舎の旧宿舎(建て替え前)であった。このオンボロ宿舎は建て替え前は悲惨なもので、とても人間様が住めるような状態ではなかった。タタミ・フスマ・風呂釜などをリフォームしてもらってなんとか住める状態となり、ここに私は三年余り住んだのである。 ▲
by osaka884
| 2007-06-18 17:10
| 連載 「男の一分」
平成十二年六月二十五日。第四十二回総選挙の投開票日。朝方は少しゆっくりと眠った私が投票に行ったのは九時過ぎ。ご近所の人達がいろいろ声をかけてくださる。
「先生、比例は自民党と書きましたで!!」 気の早い人は 「当選おめでとうございます」 なんて声もかけて下さる。 「イエ、イエ、選挙は結果が出るまでわかりません。皆様方のご支援ありがとうございます」 そんなやりとりをしながら、自分の選挙事務所に出かけた。 夜九時過ぎになると少しお酒の入った顔付の人達も混じって三三五五と集まって来られた。 「先生は絶対大丈夫やけど、石垣あぶないで!!」「イヤ、大丈夫やろ。」 実はあとでわかったことだが、「比例を公明」に対する反作用はすさまじいものがあったのである。 二十三日金曜日の集会に石垣候補と出席した帰り、「石垣先生、きょうで頭一つリードしたと思いますよ。明日は多数の先生のお仲間が最後のローラーに入ると聞いています。比例公明さえ言わなければ勝利はまちがいありません。どうかそこの所をよろしくお仲間に徹底しておいて下さい」 私の教え子に学会員がいて、彼らの動きを時々教えてくれていたので、こんなことも自信をもって言えたのである。 しかし、結果は恐れていたことになった。辻元清美候補に七三一票差で負けたのである。私の後援会幹部の一部までが「比例公明で」に反発して辻元氏に投票したり、小選挙区で「林省之介」と書いた無効票が四千票近くあったり、白紙も相当あったと聞かされた。 「林がやらせたのだ!!」 学会員の怒りは激しいものがあったらしい。私に対しても「うらみの手紙」や「のろいの手紙」が多数送りつけられた。これも四十三回総選挙の近畿比例四十位に大きく影響することになったらしい。 ▲
by osaka884
| 2007-06-15 18:27
| 連載 「男の一分」
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